暗く深い瞳でまっすぐに前を見詰める女性の顔。
これはUpsala−Ekeby社で1965年に制作された「Beata」シリーズの1つ。とても美しい絵が描かれていますが、実は灰皿です。
Upsala-Ekeby社は19世紀末に創業、一時は大変な盛況を極めますが、残念ながら1970年代初めに業績が落ち、閉鎖したスウェーデンの陶磁器メーカーです。
メーカーはスウェーデンですが、このBeataシリーズの作者はエストニア人のMari Simmulsonです。
フクヤは主に1960年代、1970年代の製品を扱っているので、どの作品を見る時にでもどうしても、この作者達が第一次、第二次世界大戦、および様々な戦争を体験しているということを考えざるを得ません。
日本と違って、国と国が地続きのヨーロッパにおいては、戦争に伴う占領と独立にまつわる悲しい歴史抜きに、その作品を語ることは出来ないからです。
実際、ソ連(現・ロシア)の隣のフィンランドがソ連から独立したのは1918年。ほんの90年前のことです。
ところが、その後も続くソ連の侵略とフィンランドの抵抗の歴史はすさまじく、特にソ連からの圧力に抗するために第二次世界大戦の時に枢軸国側(つまり日本と同じ側)に付き、敗戦のため莫大な賠償金をソ連に課されたものの、多くの犠牲と血の滲むような努力で返済期間の半分の6年間で完済。同年にはヘルシンキオリンピックの開催まで行った、なんて話は涙なくては語れません。
いや、本当に。
私はこのくだりを耳にするたびに涙が滲んでくるのですよ。
フィンランドなんて戦争中にソ連に旅客機を爆墜させられるなんて、めちゃくちゃされていますものね。
さて、このBeataの作者、Mari Simmulsonもソ連にまつわる歴史によって運命を左右された一人です。
Simmulsonは1911年、ソ連のペテルスブルクでエストニア人の両親の元で誕生しました。現在独立国のエストニアですが、彼女が生まれた年はまだソ連の占領下にありました。
その後、成長した彼女はエストニアの首都タリンのアートスクールで陶芸について学びます。エストニアは1918年に独立をしていますから、この当時は独立国だったのですね。
やがて1930年代にフィンランドに移住、アラビア社で実践を積みます。ところが、彼女の故郷エストニアは1940年に再びソ連が占領。なんと、非ロシア人住民を追放し、ロシア人を入植させる「国内移住政策」が始まったのです。同時期、ソ連はフィンランドにも侵入。戦争が始まり、多くの死者と負傷者が生まれます。
故国に帰ることが出来なくなったSimmulsonは、多くのほかの難民たちと共に第二次世界大戦中の1944年、中立国であったスウェーデンに避難します。
才能溢れる彼女はすぐにGustavsberg社に迎えられ、1949年には当時大手のUpsala-Ekeby社に移り、そのカラフルな作風で、たちまち人気の作家となりました。
1954年、スウェーデンの市民権獲得。彼女は名実ともにスウェーデン人となったのです。
当時まだ30代の始めだったSimmulsonが、二度と家族にも会えないかもしれないという思いで故国を後にする気持ちは、どのようなものだったのでしょう。特にその故国が外国人に踏みにじられ、同郷の人たちが迫害されていると知りながら。
それは、想像するだけでかなりハードな体験だったと思いますし、実際には想像を超えるつらさであったと思います。
幸いSimmulsonには手に職と才能があり、すぐに職を得ることが出来ましたが、同時期に同じく難民として移住した人たちの中には、言葉も分からない国で生活をしていくことに困難を極めた人たちもいたでしょう。
もっとも、言葉も分からず先のことも分からない状況であったのはSimmulsonも同じ。このBeataの女性の真っ直ぐな瞳と、力強い表現を見ると、そんな難しい状況でも腕一本で人生を切り開いていった、Simmulsonの芯の強さを見ているような気がします。
彼女は2000年に90年近い生涯を終えます。それに先立つ1991年、エストニアは再び悲願の独立を勝ち取りました。とはいえ、事はそれほど単純ではなく、ロシア系移民とエストニア人の間にはいくつもの問題が今だ残っています。
が、それでも私は、彼女が長生きをして、故国の独立をその目で見られたことは、本当に良かったなあ、と、単純に喜んでしまうのです。
ミタ
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SimmulsonはUpsala-Ekebyが閉鎖する最後まで、同社に残っていました。既に他のメーカーにもデザインを提供したりと、幅広く活躍していた彼女なのですが。なんだか、彼女の同社に対する思いが伝わってくるような気がします。





